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九日間だけの雪の彫刻。
さっぽろ雪像彫刻展が、一月二十一日(土)から二十九日(日)まで、本郷新記念札幌彫刻美術館(札幌市中央区宮の森)の本館前庭で開かれた=写真。
一〇数年前から続いている「なよろ国際雪像彫刻大会」(名寄市)に関わっていた札幌の陶芸家故タニグチススムさんなどの呼びかけで開かれた、この雪像彫刻展は今年で三回目。
様々なジャンルで活動している四〇代前後の木工作家、彫刻家などとともに、道都大学や平岸高校、北海道芸術デザイン校の学生チームなど一〇組が、若々しい雪像彫刻作品を作り上げていた。
雪像彫刻は、まさに雪国の風土が生み出したもので、木や石、ブロンズなどの素材と違って、溶け去ってしまう素材であり、また独自の質感と表情を持つ。
そうした独自の素材に挑戦した作品群が面白い。「水のあかり」「iceice」「着地」など作品のタイトルを横目に、雪像を見ていると作り手がどのような意図を持ってこうしたカタチを彫り上げたのかを想像する楽しさがある。斉藤佑介さんの「MomoMo」は、真っ白で冷たい雪の感触のなかで、桃のイメージにユーモアの感覚すらあって面白い。最後のMoが効いている。
雪国といっても、東北の雪と北海道の雪の風景は違う。
彫刻の面白さの一つは、そこにどのような風景を創り出すか、というところにもある。この場合、風景というのは単に視覚的なものではない。空気や風は見ることは出来ない。
桑子敏雄は「景観」と違う「風景」について、こう指摘している~《そのひとの履歴と空間に蓄積された空間の履歴との交差こそが風景を構築するのである。・・・だからこそその風景は人びとに共有される空間の風景であるとともに、そのひと固有の風景でもある。風景こそ自己と世界、自己と他者が出会う場である。》(『風景のなかの環境哲学』)
自治体などで景観条例が流行りであるが、その場合、景観をデザインするというのは、概念やコンセプトであって、風景ではない点に注意する必要がある。
個人の営為による彫刻は、本質的に風景を志向するものではないだろうか。
湿潤な東北の雪と違って、突き抜けた明るさすらある北海道の雪の風景。
会場の庭には、本郷新の野外ブロンズ像が雪に埋もれて、一部が顔を出していた。夏場には決して見ることの出来ない、そのシュールな風景のインパクトに比べると、一〇組の雪像彫刻の影は少し薄い。北海道という風土の上で、雪という素材で作り出す雪像彫刻の可能性の開花は、まだまだこれからだという感を持った。

- ベン・シャーン「永訣」(ラッキー・ドラゴン・シリーズ)
一月二十九日(日)深夜〇時五〇分から放映(北海道はSTV)された南海放送制作「放射線を浴びたX年後~ビキニ水爆実験、そして・・・」に衝撃を受けた。ボクたちはなんと迂闊だったのだろうか。
米国は太平洋ビキニ環礁で繰り返し水爆実験を行っていた。一九五四年三月一日、その「死の灰」を浴びた第五福竜丸のことは、久保山愛吉船長の被曝死とともに当時の日本社会に大きな衝撃を与えた。風化しながらも今も、「3・1ビキニデー」の運動は続いている。
しかし、水爆実験があった当時、この海域には延べ千隻以上のマグロ漁船が操業していたことをボクらは迂闊にも思い巡らしていなかった。被曝したのは第五福竜丸だけではなかった!何故それらの事実は消されてしまったのか。このドキュメンタリーは、その消された真相を追及している。
疑問を持った高知の元高校教師山下正寿さんは、八〇年代から漁船乗組員を訪ね歩き、その多くが五〇~六〇代の若さでガンなどで亡くなっていることを突き止めた。
漁師たちの無念を晴らしたいという山下さんの執念の調査に注目したのが南海放送(愛媛)の伊東英朗ディレクターだった。〇三年から伊東さんも調査報道を開始した。その過程で、米国の極秘文書も発掘した。
それによれば、米国は放射能汚染が世界中に広がることを予め予測していた。日本の五箇所を始め世界二〇〇箇所に放射能測定器を設置して、その拡がりを調査していた。日本は最も放射能汚染に晒されるだろうと分析している。
そして第五福竜丸被曝から七ヶ月後には、密かに米国は日本政府と密約、二百万㌦を支払って、マグロ検査を中止させ、ビキニ「死の灰」被曝事件の全体像も分からないまま幕引きを図った。以後、放射能汚染されたマグロがフリーパスで日本全国の市場に出回ったのである。
被曝者や遺族は、偏見や差別を恐れ口を閉ざし、巨大被曝事件は歴史から消え去ってしまった。
伊東さんらの調査報道は、ローカル枠で深夜放映されたが反応はなかったという。しかし、「3・11」福島原発事故が、五十八年前と「今」が深く繋がっていることを明るみに出し、鈍感なボクたちにも、ようやく、その声は届き始めた。
とても残念なのは、このドキュメンタリーが全国枠ながら深夜一時の放映だったことだ。どれだけの人たちが見てくれただろうか。
山下さんは番組の中でこう語っていた~放射能被曝の残酷なところは、《何十年も経たないと明らかにならないことだ。漁師たちは、そのことを死をもって立証している。》
この証言が重たいのは、福島原発事故後の日本の未来を暗示しているからである。 ( S )

- 住田、がんばれ!映画『ヒミズ』より

- 古谷実『ヒミズ』(第四巻)より
古谷実のマンガ『ヒミズ(全四巻)』(講談社 〇一~〇二年)の映画化である。
今最も゛旬″な映画監督である園子温が、原作ものを映画化するならコレと暖めていたのが一〇年前のマンガ『ヒミズ』である。ところが、この映画の製作を準備していた最中に、「3・11」東日本大震災が起きる。
「3・11」以前のままで、もはや映画も文学も表現することが出来ない時代に我々が立たされたことは明らかである。だからといって、「部品」を取り換えるように、「背景」を描きかえるように、お手軽に操作出来るものではない。
〇一年の原作の時代から、映画は「3・11」以後の時代へと舞台は変えられた。物語も、そこで深く変わっていく、そこがこの映画の一つの見所である。
園子温はインタビューでこう語っている~原作が描かれた当時にはまだ安定したムードがあったけれど、東日本大震災以降の日本は、不安定であることを前提にしなければならなくなった、《一九九〇年代以降の日本を゛終りなき日常"と表現する人たちがいますが、そのような゛日常"は終わり、゛終りなき非日常"に突入したんだと思います》と。
◇
そこでまず原作をじっくりと読んでみる。
主人公は、住田祐一という中学生。父親は出て行き、母親と貸ボート屋をやっている。その母親も男をつくって駆け落ちする。学校も休みがちな住田くんは細々と貸ボート屋を開いている。マチの金貸し屋からの取立てに追われている父親は、時々現れて、住田君に殴る蹴るの暴行を加えてカネを無心する。同級生の友達も何人か出てくる。漫画家志望の赤田くん、手癖が悪い夜野くん、そして住田くんに思いを寄せる茶沢景子ちゃん。
「ヒミズ」というのは、「日不見」と書く。「ひみずもぐら」のことである。住田くんは、《オレはモグラのようにひっそりと暮らすんだ》と呟く。
この作品の深いテーマの、今に伸びてくる衝撃は、「普通に生きたい!」という叫びである。
住田くんの願いは、《一生普通に暮らして、立派な大人になること。》親に見捨てられても、金貸し屋のヤクザにボロボロに殴られても、「こんな定番の不幸話じゃへこたれねーぞ!オレは立派な大人になるんだ!」と叫ぶ。
学校で教師が、お前たちは一人一人、「特別」なんだと歯の浮くようなことを言うと、住田くんは「普通ナメんな!普通最高!」と反論する(映画では「世界に一つだけの花」を笑い飛ばす)。
衣食住足りた「ぬるま湯」のなかで、゛終りなき日常"などとヌカシテいた風潮のなかで、古谷実は「普通に生きた!」という少年を描いたのである。
この反語的な主題の衝撃は、何かに似ていると思い、考えあぐねていた。
分かった。M・バルガス・リョサ『都会と犬ども』(新潮社)のラスト・シーンの衝撃と底流でつながっている、と思い当たった。
このペルーのノーベル文学賞作家は、この小説のなかで、人種の坩堝(るつぼ)であり、その意味では社会の縮図でもある士官学校に入学してきた少年たちの青春を描いた。少年たちの際立った個性が実に印象的に生き生きと描写される。入学前には感受性豊かでナイーブだった少年たち一人ひとりが、弱肉強食の非情な世界で、不正や偽善を潜り抜け成長していく。それだけならタダの青春小説である。ところが、この小説の仕掛けは最後のエピローグで明らかになる。成長していく少年たちの物語だと思っていたら、実は「平凡な大人」に育っていく経過を内側から抉ったものだったと分かった時、読み手は改めて全体の構成を振り返り、人間心理の分析の鋭さに戦慄するという仕掛けになっていた。
古谷の「普通」は、リョサの「平凡」とメダルの裏表だったのである。
酔っ払ってカネを無心にきた父親は、住田くんを「まだ生きていたのか、オレはお前のこと本当にいらないんだよ」と罵倒する。住田くんは、衝動的にブロックで父親を殴り殺してしまう。普通に生きることはできなかった。
父親を埋めた後、住田くんはどうしたか。カセットに「オマケ人生初日」と吹き込む。そしてこう考える~どうせなら若い無駄な命を社会のために使おう、一年の期限で、人を虫けらのように殺そうとするバカ者を殺すと思い定める。紙袋に包丁を忍ばせて、マチを徘徊するのである。ところが、本当にバカ者、悪い奴は誰なのか分からない。マチを徘徊していると、似たようにブチ切れそうな者に何人も出くわす。ここから、「秋葉原事件」の加藤智大被告までは、そんなに距離はない。
加藤被告の裁判記録を読んでも、彼自身、何故事件を引き起こしたのか分かっていないのである。それを分析できる言葉や論理をもっていない。そして、「こいつが諸悪の根源だ」と名指しできるほど現代社会は単純ではないのである。
作家雨宮処凛はこう指摘する~《もう誰が悪くて何に腹が立っていて、自分がどうしてこれほど苦しいのかわからない。そんな「わからなさ」が積み重なった瞬間、彼は暴発したのかもしれない。》
結局、住田くんも、わからないまま「悪い奴」殺しは未遂に終わる。
父親殺しを知った茶沢さんは、住田くんにぴったりと寄り添う。自首を勧める。罪を償って、立派な大人になって、出所してきたら、二人で「普通の未来」を作ろうと語り合う。自首する前夜、茶沢さんは、「結婚して子供を産んで、ある日幸せを感じて」と語ると、住田くんは「・・・うん、すごい・・・夢のようだ・・・」と呟く。
普通の暮らしが「夢」なのである。胸を衝かれる場面だ。
夜明け前、一人起きた住田くんは、自殺して、原作は終わる。
◇
映画は、「3・11」以後に舞台は設定される。
貸ボート屋のそばには、被災者たち数名がホームレスのように住んでいる。その一人で家も会社も津波に流された元社長は、原作の手癖の悪い夜野くんから代わった役だ。これが後に生きてくる。
原作にあった同級生仲間は思い切って削られ、映画は茶沢さんだけをクローズアップして住田くんに寄り添わせる。民俗学でいう「妹の力」である。
ところが驚くべきことに、貸ボート屋の佇まいも含めて、映画には原作の設定が強固に生きているのである。映画のセリフは、ほとんど原作のセリフを再現している。
にもかかわらず何故、「3・11」以後の設定なのか。
それはやはり、原作の主題を深く読み込んでいるからだと思う。つまり、゛終りなき日常"のなかで「普通に生きた!」という主題の重さである。
地震や大津波こそ、「普通の暮らし」を根こそぎ奪ってしまったではないか。福島原発事故によって、我々はもう二度と再び、「普通」に生きることが出来なくなってしまったではないか。
原作の主題を深く読み取るならば、園子温が、その映画化にあたって「3・11」以後に時代設定した、正統的な意味をそこに見ることが出来る。
だから、原作と違って住田くんを自殺させないラストシーンを用意した意味をも繋げて考えることが出来る。園子温はこう語る~《原作は非常に暗い終わり方をしますが、3・11以降の終りなき非日常を生きねばならない子供たちのラストシーンとしては、あまりに過酷です。それで、絶望の中で考え得る希望の未来みたいなことを考えていった結果、あのようなラストシーンになりました。》
自首する住田くんに寄り添って走る茶沢さんが、「住田、がんばれ!」と何度も繰り返す。それは、「がんばれ日本」だとか「絆」の安売りとは全く違う、肉声として我々に届いてくる。
ディノスシネマズ札幌劇場などで上映中。 ( S )