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「冬ざれ」(3)

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《夕暮れ時、町中に子どもの帰宅を促す鐘の音が響く。お兄ちゃんの「帰るぞ」に応えて「待って」と叫びながら女の子が駆け寄る。そのまま光の中に駆けて行きそうな二人の姿に魅せられてあわててポケットからカメラを取り出してシャッターを押す。耳を澄ませば兄妹の会話が聞こえてくる気がする。》(撮影・文 荒川顕 )
< 冬ざれや子供がとんで来るひかり >(細川加賀)


<詩>「汝の薪をはこべ」(三好達治)より
薪をはこべ
ああ汝
汝の薪をはこべ

今は秋 その秋の
一日去りまた一日去る林にいたり
賢くも汝の薪をちりいれよ
ああ汝 汝の薪をとりいれよ
冬ちかし かなた
遠き地平を見はるかせ
いまはや冬の日はまぢかに逼れり

やがて雪ふらむ
汝の國に雪ふらむ
きびしき冬の日のためには
爐をきれ 竈をきづけ
孤獨なる 孤獨なる 汝の住居(すまひ)を用意せよ

「休刊の辞」

 週刊『当別新聞』は、諸般の事情により本号をもって休刊となります。
 思い起こせば、二〇〇一(平成十三)年三月の創刊準備号から今日まで一週も休まず発行し続けて十四年十カ月、本当に確かな読者に支えられてきたことを実感しております。読者の皆さんに心から感謝申し上げます。
 足元の小さな出来事を大切に見詰めつつ、日本の社会や文化を読み解くことを編集方針にしてきました。そのことが生活の風景を変えて、人を生き生きとさせることに繋がると信じてきたからです。
 小さな小さな本紙に、どれだけのことが出来ただろうかと振りかえざるをえません。
 敗戦の日、記者としての戦争責任をとると朝日新聞社を退社したむのたけじさん(一〇〇歳)は、郷里秋田に帰って週刊新聞『たいまつ』を創刊します。三〇年間、七八〇号まで発刊して休刊しました。『当別新聞』を作っていて疲れて、ふと遠くを見ると『たいまつ』という新聞がかってあったよなと思い起こしました。一つだけ、むのさんのコトバを紹介します~《すべて窮屈なものは九九%まで有害だ。しばしば殺意すらこめられている。かっての「気ヲ付ケ」教育は、まっすぐに侵略戦争へつながった。窮屈が役に立つのは一つだけ、身を屈して躍動を志すときだ。》
 いま日本という「国のかたち」が強張って、不寛容で、窮屈なものに変質しようとしています。そうした精神の硬直化こそ『当別新聞』が打ち破りたかったものでした。
 通りすがりに小声で「読んでるよ」と云ってくれた読者、じっくりと批評してくれた読者、本当に確かな読者の支えを実感して、それが休まず本紙を発刊し続けられた力だったことは身に沁みて分かりました。重ねて、本当に有難うございました。
 またどこかでお会いしましょう。

二〇一五年十二月二〇日
            当別新聞編集人  清水 三喜雄

※ なお、『当別新聞』の全バックナンバーは、北海道立図書館北方資料室(江別市)に所蔵されております。

「当別新聞の休刊を惜しむ」
大澤勉(水彩画家・元当別町教育委員会委員長)

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大澤勉さん

青天の霹靂!『当別新聞』の休刊はまさに、それを絵に描いたようなものだ。
 間もなく八〇〇号も近く、一〇〇〇号も視野に入っていたのだから、多くの愛読者にとって、通り一遍の驚きではあるまい。
 数多くのミニコミ紙の中でも、『当別新聞』は明確な特徴があった。
 当別という地域に密着しながらも、広い視野を持ち、あらゆる分野から新鮮な切り口で問題点を引き出す。少なくとも、当たり障りのない話題には目もくれず、踏み込みの良い記事は、達意の文章と相俟って多くのファンを生み出した。
 編集人清水氏の取材範囲は、町内に留まらず、道内全域に及ぶ事も少なくなかった。当別町への愛着は、むしろ当別人よりも強いようにさえ思われた。それだけに、「町の文化化」へ向けての提言は一貫してブレる事はない。
 又、町内の様々な団体やサークル活動の中で、「これは」というものを、しっかりと見極め、エッセンスをすくいとり記事にとりあげた事は、活動する人々にとって、どんなに力強い後押しだったことだろうか。
 必要とあれば、意義深い企画を、抜群の実行力で次々と実現させた事も忘れ難い。
 当別をテーマにした創作民話(『龍棲む村に亜麻の花』)やデジタル絵本(『亜麻の花咲く村』)。町民劇『石狩川』への支援。絵本『劉連仁物語』、語り劇『道成寺語り下し』脚本の完成と当別公演、及び書籍化。江戸芸能の「粋」の紹介と、当別出身の吉原芸者みな子姐さんの「発見」!とを重ねた舞台公演の離れ技等々。
 個人的には、映画と書籍の紹介記事が、とりわけ印象的で、いつも唸らされた。この記事を読んで、その映画を見たい、その本を読みたいと思わぬ人があろうかと、よく思った。真の啓発とは、こういうことを言うのだ。
 『当別新聞』が、そういう新聞であった事に、心から敬意を表し、発信者と受信者の間に流れて来た七六八号までの幸福な年月に感謝したいと思う。
 大切なものは、失って初めて、その価値がわかるもの。改めて、「当別新聞の休刊」を今更ながら惜しむものである。

<本の紹介>
嬉野京子『戦場が見える島沖縄 ~50年間の取材から』(新日本出版社 2015年)

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 御歳七十五歳。筋金入りの報道写真家である。
 嬉野さんが初めて沖縄に渡ったのは一九六五年。弱冠二〇歳。沖縄を前線基地にして米軍がベトナムの空爆を開始した直後である。一九七二年の沖縄「本土復帰」以前、米軍が好き放題に振舞っていた時代。報道・教育関係者、聖職者ら(周りの人達に話を広げられるから)は沖縄入りが難しかった。植民地化の実態を「本土」に知られるのを防ぐためであった。嬉野さんはグラフィックデザイナーと偽って沖縄入りした。那覇港の税関で、カメラバックをぶら下げた嬉野さんを見て窓口職員(日本人)が真顔で「命の保証はないですよ」と云われる。事実、伊江島の島ぐるみ基地反対闘争取材中に米軍に拘束され、消されかける。嘘みたいな本当の話。活動家や漁民らによって漁船で脱出して「本土」へ逃げ帰るのである、《離陸し、沖縄が見えなくなるまで、怖いのと恥ずかしいのとで私は泣いていた》と嬉野さんは書いている。それから五〇年、彼女は沖縄を撮り続けてきた。本書にもいっぱい沖縄の写真が収録されている。それは沖縄の戦後の闘いそのもの、沖縄人の素顔を写していて感動的だ。
 衝撃の一枚がある。
 一九六五年四月二〇日宜野座村で、米軍車両が幼児を轢き殺した写真である。まるで犬か猫を轢いたような顔をして現場に立っている米兵ら数人。悪びれた様子もない。「本土復帰」運動の行進団の眼の前である。一人の活動家が米兵らの気をそらせるダミーとなって、嬉野さんはシフトをとった行進団の一人の肩口から、そっとシャッターを押す、《沖縄の実状を告発する写真として、本土へ、全世界へ発信されたこの写真は、沖縄の人たちが撮ったものであり、私はシャッターを押しただけなのである》と嬉野さんは語っている。
 選び抜かれた五〇年間の沖縄の闘い・生活の風景を撮った写真を、今私たちはじっくりと見る必要がある。沖縄のことを何も知らなかったことが分かるだろう。何故今、自民党も共産党もなくオール沖縄の闘いの水位がかってなく高まっているのかが良く分かる。大きなうねりに支えられて翁長雄志知事が立っている。《米軍に強制接収されてできた基地です。沖縄が自ら望んで土地を提供したものではありません》と毅然とした翁長知事に対して、アベ首相やスガ官房長官らは、米国のポチのようになんと卑小に見えることだろうか。
 文字通り、身銭を切って撮った写真・文のこの一冊、必読である。(S)

「当別短歌会詠草」(最終回)

「当別短歌会詠草」は、「当別新聞」第四号(二〇〇一年四月)に初めて掲載されました。それから今日まで毎月一回掲載してきました。「当別新聞」とともに歩んできたのです。
「当別新聞」最終号に掲載できることを喜びとします。

何気なく見やる鏡に老いし吾が写る姿に声かけやりぬ
吾妻文子
残年をしらざる故に今日も生くいつか親族(うらから)の最年長に
休刊の報せは寂し気骨ある当別新聞復刊を待つ
磯石万里
ご縁にてみな子姐さん公演会たのしみし日も昨日のやうに
しも月に四十センチこす雪は六十二年ぶりとつげをり
井上みつ
ニュースにてはやぶさ2(ツウ)のこときけばしばし宇宙へおもひをはする
惜しきかな町の催事しる地元紙を休刊すとふ記者の気魄よ
大口ひろ美
十五年町を盛り立ていち記者の労苦を称へ再刊いのる
町なかをくまなく歩き四季を撮り事つづりきし町の新聞
大澤隆子
突然に町の新聞終ゆと聞く七七十号目前にして
世の中の種種の事新聞で茶の間において知れる喜び
後藤まゆみ
特集の組み方をかし常日ごろ次回なにかと心おどらす
日の当たる斜面に福寿草堀りあてて本購へりと父は語りき
佐々木典子
あらたまの春にまされる息吹きあり子ら巴なすいのち抱けば
朔北の小さきまちにも忍びよる節電のかげえらぶ陽だまり
西口悦子
ワカサギの銀鱗愛づる釣り人のテントは並ぶ石狩の川岸
新春に玉砂利ふんで参でれば平和を願ふ集う人達
長谷川晴枝
若人が希望のもてる佳き年に凍てつく空に願ひをこめて
遠き祖とともに生きにし年月や馬頭観音水田のかたへに
丸山牧子
薪はじくもゆる音ふと開拓の人等をおもふ吹雪の夜を
新春とふ季はたがわずに巡り来るあまねく照らす日の光うけ
山田道乃
つつがなくゆく年送り歳重ね新たなる年心して生く

「当別の風景を発見し続けた画家~大澤勉水彩画展《北のふるさと》開催」
NHKギャラリー(札幌市中央区) / 12月11日~17日)

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神社仏閣や沖縄の御嶽(ウタキ)から能舞台まで、結界によって仕切られた世界、それは聖と俗の区分というよりも、「清浄」であるか否かの境界であるようにボクには思われる。「清浄」への嗜好は、古来から日本人の精神風土に深く刻まれている。
 大澤勉水彩画展《北のふるさと》の会場に入ると、そこに「清浄」な空気感を感じて思わず立ち止ってしまった。展示された二十六点の作品はすべて、当別という生活風土から風景として立ち上がって来たものを描いたものばかりだ。自宅の庭など本当に身近な日常の風景しか描いていないのに、それが非日常の「清浄」さへ昇華しているというのは驚くべきことだ。
 当別の四季をとらえながらも圧倒的に冬の、雪の当別を描いたものが多い。それは七十八歳で現役花卉農家であるから農閑期(つまり冬)にしか絵を描くことに集中できないからだ。無論それだけではない。水彩画で雪と光を描くことの技術的な難しさへの絶えざる挑戦という姿勢があるからでもある。杖を突いて訪れた初老の女性が、雪が光っている!と感嘆していた。私は描けないけれど、この通りなのよと感激していた。大澤さんの絵には、東北の雪ではない北海道の雪、北海道の冬の明るさが見事にとらえられている。
 「日没残照」や「晩秋寂光」などの陰りにも後ろ髪を引かれるような印象が残る。

<映画の紹介>
山田洋次監督『母と暮らせば』(日本映画 2015年)

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生前の井上ひさしは、ヒロシマ・ナガサキ・沖縄(そして作家小林多喜二)を舞台にした作品を書かなければ死ねない、と語っていたという。ヒロシマは『父と暮らせば』に、沖縄戦のことは『木の上の軍隊』(未完)に、多喜二のことは『組曲虐殺』に結実した。しかし、ナガサキを舞台にした作品はタイトル『母と暮らせば』のみしか遺されていなかった。山田洋次のこの映画は、井上ひさしのその遺志を継いで作られた作品である。脚本は山田洋次と平松恵美子。
         ◆
 『父と暮らせば』は広島を舞台に原爆で死んだ父竹造と生き残った娘美津江の物語、『母と暮らせば』は長崎で原爆にあって死んだ息子浩二(二宮和也)と母伸子(吉永小百合)の物語である。美津江は、自分だけ生き残ったことを負い目にして生きている。浩二の婚約者だった町子(黒木華)も全く同じだ。ともに、「うしろめとうて申し訳ない病」である。伸子もまた、一瞬で失った息子の死が受け入れられず「その後」を生きている。
 竹造が亡霊となって現れるのも、そんな娘を励ますためだ。浩二が亡霊になって母の前に現れるのも励ますためだが、町子には浩二の亡霊は見えない。しかし母伸子への励ましを通して、伸子の町子への接し方の変化が、町子の頑なな申し訳ない病を治癒していく、この映画はそうした構造になっている。何万人もの死は「統計」化してしまうが、いうまでもなく一人一人の暮らしがあり、その人生が断ち切られたのである。
 山田洋次は、小さな家族の物語を本当に丁寧に描いていく。戦後間もなく、栄養失調の時代、卵がどれだけ貴重だったか、その卵の持ち方にまで神経が行き届く。ハンドルを回す蓄音器、浩二と町子が一緒に聞くメンデルスゾーンのレコード、掃除の「はたき」、芋を蒸かすかまど、助産婦だった伸子が提げる鞄、闇物資の缶詰のラベルまで、その神経は行き届いている。そうして一人一人の顔が浮かび上がって来る。そこで初めて、小さなささやかな家族が、恋人が、友達が一瞬で失われた深い喪失感、悲しみが滲み出てくる。前作『小さいおうち』もそうだったが、ささやかな家族の幸せが、外からの大きな暴力によって根こそぎ吹き飛ばされていくのである。
 アジア太平洋戦争で日本は侵略者だった。アジアで、どれだけの人間を殺してきたか。日本人は加害者としての歴史的責任がある、決して被害者ではない。しかし、と井上ひさしは言う~《あの二個の原子爆弾は、日本人の上に落とされたばかりではなく、人間の存在全体に落とされたものだと考えるからである。あのときの被爆者たちは、核の存在から逃れることのできない二十世紀後半の世界中の人間を代表して、地獄の火で焼かれたのだ。だから被害者意識からではなく、世界五十四億の人間の一人として、あの地獄を知っていながら、「知らないふり」することは、なににもまして罪深いことだと考えるから書くのである。》(『父と暮らせば』前口上から)
 『父と暮らせば』は、読むべし。『母と暮らせば』は、観るべし。(S)
老いるショックイチオシ!巷のonちゃん