雪像説明
犬山城(別名 白帝城)の沿革
『国宝 犬山城』は、戦国時代の1537年(天文6年)、現在の位置・木曽川南岸(愛知県犬山市)標高40mの崖の上に、織田予次郎信康(織田信長の叔父)により造営されました。それ以降、特に木曽川を押さえる、軍事上・経済上・交通上の重要な拠点として重きをなしてきました。
国宝の四城(姫路城・松本城・彦根城・犬山城)のうち、最も古いとされる。
1547年(天文16年)、織田予次郎信康は岐阜・稲葉山城で戦死し、その子の織田十郎左衛門信清が城主となりました。その後、何代も城主が代わりましたが、1600年(慶長5年)の関が原合戦の頃から城郭は整備され、近世の犬山城が完成されていきます。
1617年(元和3年)、尾張藩主・徳川義直(家康の9男)の付家老・成瀬隼人正正成が、将軍徳川秀忠より城を拝領。以後、代々成瀬家の子孫に受け継がれ、犬山は成瀬家の城下町として発展し、明治時代にいたりました。
1537年(天文6年)織田信長の叔父、信康により造営
1871年(明治4年)の廃藩置県で廃城となり、天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。しかし、1891年(明治24年)の濃尾地震で大きな被害を受けた付櫓や城門の一部などの修復を条件に、当時の所有者・愛知県から9代・成瀬正肥の成瀬家に再び譲渡され、12代・正俊の代まで日本唯一の個人所有の城でした。
また、伊勢湾台風でも被害を受けたため、1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)までの4年間で城の解体修理が行われました。
1935年(昭和10年)には国宝に、1952年(昭和27年)の規則改正により改めて国宝に指定されています。国宝の四城(姫路城・松本城・彦根城・犬山城)のうち、最も古い城であり、現存する天守の中では日本最古のものとされています。
2004年(平成16年)4月には財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され、城の所有者は個人から財団法人に移りました。
白帝城(はくていじょう)の名の由来
江戸時代の儒学者・荻生徂徠が李白の詩からとって命名したと伝えられる。
朝に辞す白帝彩雲の間 戦利の江陵一日にして還る
両岸の猿声啼きやまざるに 軽舟すでに過ぐ万重の山
(白帝城:中国重慶市の長江沿いに位置、「三国志」で劉備が臨終を迎えた城)
天守閣構造
総延面積 | 698.775u(地階1,2階で入口を含む) |
構造形式 | 望楼式 |
外 観 | 三層 高さ19m(内部4階、石垣の中2階付) |