2009年10月22日(木)
藤村でございます。毎日ここに日記を書こうとして寝る前に携帯を開き、書くことを考えてるうちにストッと眠りに落ちてしまう日々が続いております。今日は寝る前に書きます。
このドラマは、エンターテイメントと話題性に走り過ぎて、いつのまにか大人が見なくなってしまった今のドラマ作りに対して、それでいいんだろうか、本当はみんな実力派の役者さんたちの芝居を見たいんじゃないだろうか、という思いで作り始めました。それはなにより一視聴者としての自分がそういうものを見たいと思ったから。
そしてもうひとつ、ドラマの中の映像の美しさ。それはいわゆるハイビジョン的なクリアな美しさではなく、質感としての、情感としての美しさが今のドラマには欠けてしまっているんではないかと。ドラマというのはあくまでも作りものであって、すべてをクリアに見せるテレビカメラで撮ってしはいけないと思うんです。例えばピントが合う部分が非常に狭いレンズを使えば、手前だけにピントが合って背景はボケる、なんていう画が撮れます。そうすると映像に質感と、カメラを構えている者の意思、というのが出てきます。「ここを見てくれ」という。でもそれが、全方位をまんべんなくクリアに映し出すテレビカメラだと、ここを見てくれという意思を一枚の画の中で表現できなくなってしまう。表現するためにはアップで寄るしかない。だから、いいセリフを言うたんびにアップに寄ることになってしまう。そうなるともう、撮る者の意思というより、いいセリフの押し売り、いい表情の押し売りでしかなくなってしまう。本来ならば一枚の画の中で、役者の微妙な表現のやりとりが映
し出されているのがいいに決まってる。でもそのためには、ずっと見ていられるような映像の美しさ、質感がないといけない。だからこのドラマはRED-ONEというテレビではほとんど使われることのない特殊なカメラで撮影されています。ドラマはあくまでも作られた物語なんだから、現実をありのままに映し出すテレビカメラで撮るのではなく、あえて現実をぼやかしたり、あえて美しく撮ったり、異質な質感で撮ることが必要になってくる。考えてみれば当たり前のことのように思うけれど、スタジオセットで時間を区切ってドラマを撮らざるをえない状況に陥っているうちに、いつのまにかドラマに本来必要なはずの映像のチカラというものを忘れてしまったんではないだろうか。まず情景があって、その中で役者さんに演じてもらう。そうすると一枚の画の中でドラマはちゃんと成立する。
ドラマ「ミエルヒ」のシンボル的な情景として、石狩川とその向こうに見える製紙工場の煙突、という一枚の風景があります。きのう、時折雨が降る中で、その風景をバックにあるシーンを撮りました。すると雲間からとつぜん光が差し込み、製紙工場から出る煙だけをサーッと照らしました。厚雲に覆われた低い空に、そこだけ明るく照らされた製紙工場の煙突。それはなんだかとても神秘的な風景で、そこに役者が立っているだけで、そのシーンの情感をすべて表しているようでした。
もともとバラエティーが好きで、本格的なドラマを演出するのはまだ2本目だけど、なんだかドラマ作りにとって大事なことを今回はたくさん教えられた気がします。
撮影10日目が終了。いよいよ終わりが見えてきました。