青いツバメ

ストーリー


秋野 豊…まさに破り、破天荒な学者だった。

口癖は、「自分で調べ、自分で組み立てたものしか語らない!」
だから、彼には現地調査が欠かせなかった。
ゴルバチョフ登場期のモスクワでは、真紅のBMWバイクに跨り街を疾駆。
クレムリン内部でうごめく権力闘争の実態を凝視し続けた。

さらに、冷戦崩壊後は、フィールドをユーラシア全域に広げ、辺境の紛争地帯をひたすら歩いた。得意としたのは、"ビザ無し渡航"。
旧ソ連の周辺諸国にビザを取得せずに入り、その対応振りを観察することで国家形成(ネーション・ビルディング)の状況を把握した。

また、権威というものを嫌い、同僚や上司と衝突するのを恐れなかった。
絶えず一匹狼。そのくせ、誰よりも男気があり、人助けを好んだ。
ラグビーをこよなく愛するスポーツマンで、高校時代共に励んだ柔道仲間からは、生涯"大将"と呼ばれ続けた。

北海道小樽出身。筑波大学助教授で行動派の国際政治学者として活躍した秋野 豊
・・・彼が、往ってから早くも7年の歳月が流れた。

1998年7月20日。中央アジア・タジキスタン共和国。
国連タジキスタン監視団(UNMOT)の政務官として活動中だった秋野は、首都ドゥシャンベの東約180キロの山岳地帯で、何者かによって殺害された。
その後、犯人として3名の反政府ゲリラが逮捕されたが、事件の真相は未だ闇の中である。

…だが、彼を知る人々の心の中で、7年の歳月が経っても未だわだかまっている問いは、事件の真相だけではない。
高校3年の時、「プラハの春」とソ連の軍事介入の報道に接し衝撃を受けた秋野。
彼は、一つ違いの弟に対しこう語ったという。

「将来は、国連職員となって世界平和のために働きたい!」

その後、早大を経て、北大に学士入学、国際政治学者として歩み始めた秋野は、スラブ・ユーラシアを専門領域とする研究者としてメキメキ頭角を現していた。そんな彼の元へ、外務省から停戦監視活動の政務官の依頼が来たのは、97年の11月。

当時は、日本の国連常任理事国入りが盛んに論議されていた最中。

事実、筑波大学助教授の職を辞し、5ヵ月後にはタジキスタンに
赴任した秋野は、こんな電子メールを恩師に送っている。

画像「雨の日が多く、恐れていたほど暑くありません。
これは問題です。
なぜなら日本政府は私に、日本の国際貢献は
金だけではない事を示すために、汗をかくよう
期待しているからです。
汗をかくことこそ私の最も得意とするところです。
私は『飛び回る国連政務官』になるつもりです。」

                   (98年5月10日 )

"顔の見える国家・日本"を認知させる為の国際貢献
その渦中で命を落とした秋野の姿は、マスコミよって「国際貢献の為に散った悲劇のヒーロー」として大きく取り上げられた。
…だが、家族をはじめ彼の周囲にいた人々は、未だに"そのヒーロー像"に対して違和感が拭えない。

その最大の理由は、タジキスタンへの赴任を決断する2年前、彼が残した次の言葉である。

脅かされず、踊らされず、踊る
           交わって、味わって、群れず
                 動じず、しびれて、死なず

秋野豊1995年元旦に、秋野が書初めとして記した
三行の言葉。

行動派で、且つ一匹狼。
彼の身上そのままのこの言葉と、新聞や雑誌に踊った
"国際貢献の為に"という文字がどうにも
合致しないのだ。

彼・秋野 豊なら、国家の為などではなく、自分自身の為に、タジキスタンに行ったハズ。
遥か中央アジアの碧い空の下。
秋野 豊は、何を果たそうとしていたのだろうか?

しかし、秋野 豊の現地での行動を記したものは、皆無に等しい。
国連にも、外務省にも活動の報告書は残されていない。
手がかりは、未現像のまま戻ってきた90枚あまりの写真
・ ・・そして、家族と交わし続けた電子メールのやり取りの記録だ。

さらに、彼の死の半年後、タジキスタンから送られてきた一枚のホワイトボード。
秋野が、PEACE(平和)への道筋を示したと思われる、
その書き込みは一体何を表しているのだろうか?

ホワイトボード ホワイトボード

中央アジアの碧き空の下、秋野が追い求めた夢が、今明らかになる。





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