第60回さっぽろ雪まつり 雪のHTB広場

雪像説明

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大雪像「浜松城」は、徳川家康が遠州(現在の静岡県西部、浜松市周辺)攻略の拠点として、元亀元年(1570年)に前身の引馬城に大々的な改修を加えて築いた城です。
当時の城郭は南北約500m、東西約450mで、三方原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸がほぼ一直線に並ぶ「梯郭式」の築城法をとっていました。野面積みの石垣(自然石を上下に積み重ねたもの)が特徴で、現在も修復を重ねながらその石垣は残っています。
浜松藩政約300年の間に再任を含め25代の城主が誕生しました。城主が後に、老中(6人)や大阪城代(2人)、京都所司代(2人)、寺社奉行(4人)という幕府の要職に登用されたことから、浜松城は「出世城」とも呼ばれました。特に有名な城主は天保の改革で知られ、老中にもなった水野忠邦です。出世城のことは、松島十湖の句「はま松は、出世城なり、初松魚」にも残されています。
明治維新以後、城郭は壊され荒廃しましたが、昭和33年に浜松市民の熱意が結実し、野面積みの旧天守台の上に新天守閣が再建されました。昭和34年6月18日には浜松城跡が浜松市の史跡に指定され、現在は城内に資料館が開設されています。

小雪像「若き日の徳川家康公の銅像」(浜松城公園内)を右前に配置しました。
徳川家康は、29歳から45歳までの17年間浜松城に在城しました。この期間に浜松城を拠点として幾多の戦(姉川の合戦、三方原合戦、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い)が行われました。徳川家康にとってこの期間は、徳川300年の歴史を築く試練の年月でもありました。

浜松市役所から絵図(図面等)の資料をはじめとするご協力を得て北海道テレビ放送と陸上自衛隊第11旅団第18普通科連隊及び第11戦車大隊、第11施設中隊、第11通信中隊が制作しました。

 

雪像概要

高さ 15メートル 正面幅 21メートル 奥行き 22メートル
雪の量 大型6tトラック 約350台 2,100t
制作要領 アイスブロック工法により制作した約20種・2,000個の雪のブロックを、削りだした表面に貼り付ける。
制作人員 延べ 約4,000名
制作期間 1月6日から2月3日(29日間)
制作部隊 陸上自衛隊 第11旅団 第3雪像制作隊(真駒内駐屯地)
 
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