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9月19日(火) 山田佳晴(報道デスク)
10年ちょっと前、友人の紹介で「占いがよく当たる」という男性を紹介してもらったことがある。当時、結婚を控えていたので、「占いでもしてみようか」と思ったのだ。
生年月日プラス誕生した時間まで必要という緻密(?)な占いだったが、六角形だか、八角形だかの「クモの巣」のような図の中で、特性のある部分がぐんと伸び、そうじゃないところがヘコんでいる占いの結果を見せられ、自分はずいぶん片寄った人間だなあと感じた。
悔しいので、「すべてに突出した人間なんかいるんですか?」と聞いたところ、その男性が「麻原です」と答え、びっくりした記憶がある。
オウム真理教の麻原彰晃。
その裁判をどうしても傍聴したくて、テレビ朝日の司法記者に頼んで、取材グループに加えてもらったことがある。
東京地裁。
目の前に座っている。
当時、1万人を超える信者がいた教祖。
その口は何を語るのか。
しかし、聞こえるのは、気味の悪い意味不明な発言だけ。
裁判は、結局、不規則発言以上のものを引き出せず、麻原の死刑が確定した。
オウムによる「地下鉄サリン事件」と、「阪神淡路大震災」。
この2つの「巨大な暴力」の前と後では、日本は違うものになったと言われる。社会は異質なものに対してより情け容赦なく線を引くようになった。弱者に対してより冷たくなってきたようにも感じる。
うしろから歩いてくる人間がいるのにドアを閉める。電車の中で小さな子どもを抱くひとがいても席を譲らない。平気でゴミを捨てる。親は親。子は子。支障があれば殺すだけ。自分さえよければという空気がこの10年で日本中にまん延していないか。
オウムの事件と地震だけでそういう社会がぽっと出てきたわけではないが、この10年で、ぎすぎすした住みにくさを余計に感じるのはなぜだろう。
安全神話を吹き飛ばされた日本人が、意識しようとしまいと引きずる「不安」という名の大きな影。
麻原が、法廷で何も語らなかったのは残念だ。でも、麻原の供述が事件の解明につながり、社会がいい方向に軌道修正するのかと言えば、そうでもないだろう。事件は起きたのだ。まして、教祖の死刑は何も生み出さない。
では、どうすればいいのか。
この問いに答えようとする姿勢を日本人の何割が持っているかにすべてはかかっているのです、と言ったらヘタな占いのように聞こえるだろうか。
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1年2カ月、60回近くに渡ってこのコーナーに駄文を載せていただきました。頭と心に汗をかきながらのいい経験となりました。今までありがとうございました。 |