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12月19日(月) 山田佳晴(報道デスク)
最近、子供が借りた「おばけのQ太郎」のビデオを一緒に見た。20年前にリメークされたバージョン。エピソードのひとつは、正(しょう)ちゃんのお父さんが北海道に転勤になるかもしれないというものだった。
ここでの北海道の描き方が凄い。道を歩いていると吹雪でお父さんが氷像になってしまう。また、お父さんが家でラーメンを食べていると吹雪で窓が壊れ、ラーメンが冷凍食品になってしまうのだ。
今なら「地方差別だ」としてこういう表現は自粛されるだろうか。
しかし、マンガのこととは言え、ちょっと前まで北海道のイメージはこうだったのだ。ましてアメリカ人が描く「NIPPON」に正確な「日本」の描写を期待するのは酷というものだろうか。
ハリウッドが芸者の世界を描いた。映画「SAYURI」である。
花街に「はなまち」というちょうちんが下がっているのはご愛嬌として(そういえば「マトリックス」には『店』という看板がありましたね)、日本の伝統と風景の美しさにレスペクトが払われているのは理解できた。
ただ、さゆりが芸妓として認められることになった踊りで「日本の様式美」が完全に横に置かれてしまった。ロブ・マーシャル監督が前作「シカゴ」のノリを持ち込んでしまったからだ。「シカゴ」は「シカゴ」、日本舞踊は日本舞踊である。肝心のところで、西洋人の目から見たわかりやすさに走ってしまったのは残念だった。
製作はスピルバーグ。「SAYURI」の前に自らがメガホンをとった「宇宙戦争」では、「大阪人が宇宙人を倒した。アメリカ人にもできないことはない」と、HGウェルズもびっくりする脚本を採用していた。
昔から「1941」や「太陽の帝国」などで日本人を描いてきたひとだ。「SAYURI」は、スピルバーグのNIPPON考察の「道半ば」といったところだろうか。
ところで、映画の原題は「SAYURI」ではない。「メモワール・オブ・ア・ゲイシャ」(原作のまま)だ。映画の中でも「ゲイシャ」「ゲイシャ」と連発されていた。
これまで海外からは「ゲイシャガール」と呼ばれることが多かった芸妓の方々だが、「ガール」が取れただけでも、この映画の意義はあるのかもしれない。「ゲイシャガール」は「イタマエボーイ」(そんな言葉、もちろんないけれど)と同じくらいヘンな呼び方だったのだから。
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