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6月13日(火) 山田佳晴(報道デスク)
ヒディンク監督の生まれた家を取材したのは、前回のワールドカップ直後のことだった。生家は、オランダの地方都市にあった。車で3分も走ればメインストリートが終わる小さな町だった。
閑静な住宅街に響く「テ〜ハン・ミングク」の声。生家を訪ねる韓国からのツアーが盛んに行われていた。それぐらいヒディンク監督に対する韓国人サポーターの感謝の気持ちは大きかった。ワールドカップ・ベスト4という快挙。ヒディンク家の庭の土は、ひと鉢数百円で売られ、売り切れとなる異常な盛り上がりだった。
あれから4年。
オーストラリア代表との初戦を迎えるまでは、とにかくヒディンク監督が怖かった。「いつもの力を出せば勝てる」としたお気楽な論調が日本の側に多かったのに対し、ヒディンク監督には日本にリスペクトを払う慎重な発言が目立った。謙遜していて怖かったのだ。
きのう(6月12日)試合が始まったら、その激しさが怖かった。前半の中村のゴールはファウルだと全身で怒りを撒き散らしていた。その激怒ぶりはすさまじく、まわりの人間が監督のカラダを押さえていたくらいだ。
この怒りがヒディンク監督という炎のカタマリにさらなる油を注いだのかはわからないが、後半つぎつぎと打って出た選手交代は、TVの前で身をよじらせながら「日本のサムライ」たちを応援していたわたしの恐怖心をさらにあおった。
これに対してジーコ監督は…
というのは止めにしよう。多くのメディアがすでに指摘している。でも、少なくとも最近のピッチの上の「光景」は、自ら考え、コミュニケートする選手たちの姿だ。選手を成長させたジーコ監督のこれは功績のひとつなのだ。
きのうヒディンク監督が教えてくれたこと。それはサッカーの試合で「格上」「格下」という意識は意味がないという当たり前のことだ。
だったらクロアチアに対しても、ブラジルに対しても見せてやりましょうよ。前回のワールドカップでは見られなかった、ひとりひとりが意思をもって考えるという、世界では当たり前のこのスタイルで戦うサムライの姿を。最後まであきらめないサムライ魂を。
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