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8月22日(火) 山田佳晴(報道デスク)
最近、会社のトイレがすべてシャワートイレになった。シャワートイレはアメリカにも進出しつつあるけれども、これだけ日常的にお尻を洗うのは日本人だけだ。
そういえば、去年の暮れ、十数年ぶりに来日した歌手のマドンナも「日本の暖かい便座が懐かしかった」と話していた。マドンナも認める快適さ。日本のトイレは間違いなく世界一だ。
便利といえば、お弁当についているしょう油の袋などもそうだ。「こちら側のどこからでも切れます」と書いている。やってみるとスルスルと何の苦労もない。
ところが、ヨーロッパなどでは、消費者の「自助努力」にまかせるだけだ。「どこからでも切れません」と書いてほしいくらいだ。食べ物などの袋を開けるときにはハサミが必要になる。ハサミがなければ、ビニール袋を歯で噛みちぎる。正直、歯が抜けそうになるときもある。日本にとっての「不便」は、世界の多くの国では「当たり前の日常」だったりする。
島国で、とどまるところを知らずに発達し続けるこうした快適さ、便利さは日本人にどういう影響を与えているのだろうか。
もちろん、せまい国土を有効に使って、資源がないのを克服しようと技術の開発にいそしんできた歴史や国民性というものがあるのだけれど、何か大切なものがちょっとずつ奪われていないか心配だ。
ケータイはどうだろう。「第3世代」のケータイが登場してびっくりしたと思ったら、年内にも「第3・5世代」が販売されるそうだ。ケータイにTV番組をダウンロードして、好きなときに視聴する時代がくるわけだ。
ところで、大人も若者もこんなにケータイの画面を年がら年中眺めているのは日本人だけではないか。動画はまだ主流になっていないわけで、多くはメールをしているのだろう。いつも誰かとつながっていないと不安でしょうがないのか。外国から帰ってきて札幌の街を歩くと異様な光景に見える。
夏の甲子園。駒大苫小牧の本間キャプテンはケータイを持っていない、とアナウンサーが実況していた。いいなあ、こういう高校生。
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