今回の「試験に出る日本史」。
わたくし、画面上では、知ったような口ぶりで、えらそーに歴史講釈をしておりますが、実のところ「日本史」、そんなに詳しくございませんでした。
それが、このたびの企画で、ずいぶん勉強させていただきました。
嬉野くんとの、2週間に及ぶ下調べ、「小芝居の台本」書き。
時には、二人で喫茶店に行き、仕入れた歴史本を読み漁り、「だから信長はこうなったんだ」「いや、違いますよ」「じゃ、なんだよッ!」と、ケンカまがいの歴史談義も交わしておりました。
「へーそーなんだぁ」「なーるほど」と、うなずき、感心することもしばしば。
勤務時間中に、歴史の勉強に没頭する。
まことに、この「テレビ番組の制作」という職業、「楽しいものだなぁ」と思いました。
さて、今回。
信長の歴史の中でも、おもしろそうなエピソードをピックアップしてご紹介しましたが、時間の都合上、「カット」してしまった部分もいくつかございます。
ご紹介しておきましょう。
織田信長は、「義理の弟」浅井長政に裏切られた。
1570年、「姉川の合戦」のキッカケとなった出来事である。
浅井長政という男。
越前の朝倉とは、先祖代々からの深いつながりがあった。まぁ、小さいころから「朝倉のおじさん」みたいな関係だったんだろう。
「その朝倉には、攻撃を加えない」という条件をつけて、浅井は信長の妹・お市と結婚し、同盟関係を結んだ。
しかし、信長は、その約束を、いとも簡単に破って、朝倉攻めに着手。
思い悩んだ長政は、結局、信長を裏切って、朝倉のおじさんを助けた。
どうだろうか?
浅井の行動は、正しいのだろうか?
「このままいけば、間違いなく天下を取るだろう」織田信長。
ましてや、その信長の妹(絶世の美女と誉れの高い)お市を嫁にもらって、子宝にも恵まれて、たいそう幸せな暮らしをしていたという浅井長政。
その浅井が、どうして朝倉を助けようとしたのか・・・。
小谷城へと向かう車中で、そんな話になった。
「おれには、さっぱり理解できない・・・」
「まぁ、藤村くんなんかは、そうだろうねぇ」
言ったのは、大泉さんだ。
「浅井長政は、義理人情を大切にする男なんですよ。その浅井にしてみたら、『朝倉に手を出すな』という約束を、簡単に破った信長は、許せなかったんじゃないの?」
まぁ、確かにそういう人間はいる。
「いくら信長兄さんとはいえ、オレ・・・約束を簡単に破るような人間は許せないっス!」
いるな。確かにいる。
「でも、バカだな。子供も奥さんもいて、理屈で考えればさぁ・・・」
「まぁ、藤村くんは、信長ほどの度量は持ってないけど、完全に信長タイプだからね。理解できませんよ」
確かに私は、「信長のやり方」が一番好きだ。事に及んで、全てに理屈が通っている。
ハタから見れば、「おまえは、へ理屈しか通ってないじゃんか」と言われそうだが、そうじゃない。
私なりに、いろいろと理屈で考えて、結果、それに合わないものは、あっさりと切り捨てる。
「なんだよ!さっき言ってたことと違うじゃねぇか!」
「だって、よく考えたらこっちの方がいいんだもん」
あっさりだ。「人情」など、知ったことか!である。
でも、それが、うまくいかないとわかると、「是非に及ばず!(もうしょうがないです)」と、誰よりも早く諦めてしまう。
それで、いつも迷惑をこうむるのは、大泉さんであり、ミスターだ。
だから、彼はよく分かっている。
「その点、ウチの社長は、浅井長政だね。『理屈』っていうより、『人情を大切にする人』だから。・・・っていうか、まぁ、この人は『任侠』の人だけど」
まぁ確かにミスターには、そういうとこがある。
理屈で考えたら、おかしなところでも、「やるしかないんです!」とか言って、自ら好んで「不幸のど真ん中」に入り込んでいくことが多々ある。
信長タイプには、理解不能な行動パターンだ。
そうなると大泉さんは、なんだ?
それは、間違いなく、秀吉だ。
秀吉という人は、機を見る眼力に優れ、人の心を、一瞬にしてつかむのが上手かったらしい。言うなれば、それだけで、出世したようなところがある。
騙され続け、ボヤキ倒し、それでも足りなきゃ「寝顔でもなんでも、おもしろいものは全部撮ていただいて結構!」と、ケツの穴どころか、内臓まで、ブラウン管にさらけ出すような捨て身のご奉公。
挙句「洋ちゃんおもしろーい!」「洋ちゃんかわいそー!」などと、世の女性陣の心をガッチリつかみ、いつのまにやら日本一のローカルタレントにのし上がった大泉さん。
まさに、秀吉。
さらに秀吉は、いったん天下を取ると、それまでの平身低頭ぶりは、どこへやら。
贅の限りを尽くした「聚楽第」などという豪邸を建て、「関白」なんていう仰々しい肩書きを臆面もなく自分につけた。
たいそう「見栄っ張りな人」であったという。
「言いたかないけど、ぼくはね・・・今じゃぁ、六本木プリンスホテルのツインルームを、シングルユースする男だよ。それがなんだい・・・ツインルームの4人使用とは、どういうことだよ!」
昔日の「学生兼業タレント」として「懐で主人のわらじを温めていた」あどけない大泉青年の面影はなく、今じゃ、ホテルの部屋割りひとつにも、強い口調で制作サイドにクレームをつける。
まさに秀吉!
「となると安田くんは・・・」
文句なし、家康だ。
信長、秀吉が「天下だ!天下だ!」と騒いでいる横で、ずっと、黙って、おいしいところを待ち続ける。
挙句、鼻から牛乳を噴出して、一発で天下を取る。
小さな家康だ。
残る嬉野くんは、ちょっと畑違いだけど参謀タイプの「諸葛孔明」だろう。しかしまぁ、あれほど頭は良くないから、「頭脳的参謀」というより、「精神的参謀」だ。
さて、またまた「枕」が長くなってしまったが、いくつか紹介できなかった「歴史よもやま話」。
今言った、「浅井長政の裏切り」。
浅井は、朝倉を見殺しにすることができず、突如、信長に反旗をひるがえし、挟み撃ちにした。
「お市のあずき袋」の話は、かなりウソくさいが、それにしても信長は、かなり不意をつかれた。
信長は、いい気になって越前の奥深く、金ヶ崎城まで、攻め入ってしまった。このまま浅井に後方を突かれたら、逃げ道は無くなり、全軍壊滅もあり得る。
信長は、絶対絶命の大ピンチに陥った。
この危機的状況の中、「殿(しんがり)」と言って、全軍の最後尾で敵を食い止めながら、味方を逃がす、という命がけの役目を、自ら買って出た男がいる。
サル顔の小柄な男、木下藤吉郎。のちの豊臣秀吉だ。
さすが!大泉さん。おいしいところは見逃さない。
おかげで信長は、命からがら京へ逃げ帰ることができた。これを、「金ヶ崎の退き口」という。
ちなみにこの時、家康も援軍として、この朝倉攻めに参加し、一緒に逃げている。また、明智光秀もすでに信長の家臣として、これに参加していた。
つまり、一度は天下を取った4人の男、信長、秀吉、明智光秀、そして家康が、そろって浅井長政から逃げまどったという、ちょっと情けないエピソードである。
さて、それから3年。
遂に信長は、浅井を滅ぼす。
陥落が目前に迫った小谷城で、浅井長政は、愛する妻・お市を信長の元へ送り返す。
「おまえは、生きて、3人の娘を立派に育ててくれッ!」
義理に生きた男は、そう言って、妻と子を送り出し、ひとり静かに自害した。
浅井長政、29歳。早すぎる非業の死であった。
では、その後、お市は、どうなったか?
実は36歳で再婚する。相手は、信長の古くからの家臣、柴田勝家。柴田さん、この時、62歳。年齢差、およそ30!
執念というか、この古参の家臣・勝家は、ずーっと昔から、お市を好きだったらしい。で、ずーっと独身だったらしい。
そして実は、豊臣秀吉も、お市のことが、好きだったらしい。
なんせ、絶世の美女。その上、信長の妹だもの、抜け目ない秀吉が、ほっとくわけがない。
しかし、運命のいたずらか、信長が本能寺で死んだ後、その跡目争いで、秀吉と柴田勝家が戦うことになる。
1583年、賎ヶ岳の戦い。
そして、この戦いに敗れた勝家とともに、お市は自害する。「美女であるが故」の波乱万丈の人生を終えたのだ。
好きだった人を討った秀吉の気持ちは、どれほどのものだったか・・・。
しかし、この秀吉という男、ただ者ではない。
先に、「3人の娘」と言った。お市とともに生き延びた3人の娘。
そのうちのひとり、長女の名前を「茶々」という。
聞いたことある?
のちの「淀君」。秀吉の側室となる人だ。
なんと秀吉さん!好きだったお市の娘を、「側室」にしてしまったのだ。
なんと言うか・・・。
それにしても、お市に負けず劣らず、数奇な運命をたどる娘たち。
末っ子の娘。名前は小督(おごう)。
徳川家康の子、秀忠に嫁入りする。二人の間に生まれた子は、後に徳川第3代将軍・家光となる。
非業の死を遂げた浅井長政、そしてお市だったが、しかし、ふたりの血は、脈々と徳川200年の歴史に生き続けたわけだ。
さすが!ミスター!いや、浅井長政。ただじゃ死ななかった。
こうして見ていくと、「日本の歴史」ってのは、スゴイ。まさに「人間の記録」だ。
余談。
長篠の合戦の舞台。
長篠城を挟むように流れる二つの川。そのひとつ「寒狭川」の向こう岸に、実は、私の故郷がある。
愛知県新城市。名古屋に越す前、小学生時代を過ごした実家が、今もある。
長篠城からは、およそ2キロの距離。
「鳥居強右衛門」は、郷土の英雄だった。
通っていた小学校は、まさに信長が鉄砲隊を組んだ「設楽が原」の真っ只中にあった。
学校の近くには、夜な夜な「武田の武者が自分の首を手に持って洗っている」という、「首洗い池」と呼ばれる池もあった。(恐くて、近づいたこともないが)
親父の話では、関が原の合戦ごろの「慶長年間に行われた検地」で、すでに藤村の名前が、ちゃんと今の実家の位置に記録されているらしい。
1575年、長篠の合戦の、ほんの20数年後に作成された記録だ。
ということは、間違いなく長篠の合戦の真っ只中、「あの修羅場」に、私の祖先はいたのだ。
「で、ウチは、そのころ何してたの!」
ちょっと興奮気味に親父に聞いた。
もしかしたら、長篠城にこもって、命がけで城を守った勇気ある奥平勢の1人だったかもしれん!
「いや、百姓。ウチは昔からお百姓さんだわ。」
「そうなんか・・・」
「でも、昔は馬を貸す仕事もしとったらしいで・・・」
「じゃ、武田の騎馬隊の下請けか!」
「いや、百姓。田んぼほったらかして、逃げまくっとったんだわ、きっと」
そうか・・・ちょっとカッコ悪いが、でも、まぁ、百姓で良かった。
よくぞ・・・よくぞ!生き延びてくれた!我が祖先!
おかげで、今のぼくがいる。