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グッド!モーニング
「長い間、電池が切れていたようですね」。時計店の店主の言葉に、私は思わず苦笑いをした。
この時計を父に買ってもらったのは、もう30年以上も前だ。
色とりどりの文字盤の時計が並ぶ中で、
17歳の私には似つかわしくない、秒針のない黒の文字盤の時計を手に取った。
恐る恐る見た値段に胸がドキンとして、すぐケースに戻した。
しかし、また黒の時計に手が伸びては小さなため息をつく私に、父が言った。
「好きなものを選んでいいんだよ」。
母のちょっとびっくりした顔と、父の笑顔に伴われて、時計は私の腕に収まった。
高校生活の2年間、汽車通学のお供をしてくれたその後、
秒針が必要な職業に就いてからは、特別な日に着ける「よそゆきの時計」として活躍した。
家が火事に見舞われた時も、その日が特別な日だったおかげで奇跡的に手元に残った。
大事にしたいと思っていたけれど、子育てしながら働く私に、特別な日はそう多くはない。
気がつけば引き出しの中で時を止めていることも多くなった。
ある日、止まっている時計を見て、急に悲しくなった。
「約束する、大事にする」。17歳の私の声が聞こえたような気がしたからだ。
父との約束を守っていない自分が情けなかった。
電池を入れ替え動きだした時計は息を吹き返したように見えた。
この時計と一緒に仕事しよう。時計として働いてもらおう。
今の私に黒の時計はよく似合う。〆
94歳の母が白内障の手術をした。かなり前から、あまり見えていなかったらしい。
でも「年を取れば誰でも見えなくなるもの」と手術をずっと拒み続けていたのだ。
とうとう30センチ以上先は見えなくなり、いずれ失明すると言われ、
やっと手術を受け入れてくれた。
が、いざ手術となると、白内障だけでなく目そのもののダメージが大きく、
2カ所の眼科で、手術をしても失明の可能性は大、と言われた。
残り少ない人生、失明したらかわいそうだし、介護する私も大変になる。
そんなことを考えながらも、覚悟を決めて手術を受けた。
幸い成功し、よく見えるようになった。
家に帰ってきた母は、私の顔をしみじみ見ると、ぽろぽろ泣きだした。
よく見えるのがうれしくて、泣いているのかと思ったら、
「あなたがこんなに年を取ってしまったのは、
私が苦労をかけたからね・・・」と涙声で言う。
そうか、今まではしわやシミが見えなかったので、母の中の私は若いままなのだ。
実際の、しわ顔の私を見てびっくりしたのだろう。
年々年を取り、少しず増えていったしわなので
「年相応なのよ」と、母の責任ではないことを説明し、
夫と「手術しない方が良かったかも」と笑った。
今では、新聞もよく読めるようになった母の横顔を見ながら、本当にうれしく思っている。 〆
買い物を終え、スーパーから出て来た駐車場で、
私を待つかのように立ち止まっている人に気付いた。
70歳にもなろうかと思うほどの男性である。その顔に見覚えはない。
歩き去ろうとした時、その男性から声をかけられた。
「着物はいいですね。懐かしくて。
私の母親がね、いつも着物を着ていたものだから、つい思い出してね」
私はとっさに気の利いた言葉を返せず、
「ああ、かっぽう着ですか」と自分の普段着に目を落とした。
「いやー、かっぽう着ばかりでなく、今こうして着物を着る人はいないものね」
そして再び「母親がいつも着物を着ていたものだから」。
私は、「そうですか。昔のお母さんは、そうでしたよね」と答えた。
短い時間だったけれどゆったりと交わした言葉だった。
「いやー、何ということもないのに、すみませんでしたね」
「いいえ、こちらこそありがとうございました。お気を付けて」と別れた。
せめて家までの道すがらは、お母さんと2人連れでありますように。
立ち去るその背中に、お母さんを恋い慕う老齢の男心を垣間見る思いがした。
そうか。私を待っていたのではなく、はるかなお母さんに会っていたのだ。
私の普段着姿が、あの人の亡きお母さんをしのぶきっかけとなったのなら、
明日も身に付けるかっぽう着は、洗いざらしのきれいな物でありたいと思った。
ふと気が付くと、私もまた、遠い母と2人連れの家路であった。 〆