戦後80年 記憶をつなぐ 特攻隊で散った友 生き残った100歳の男性
2025年 8月15日 11:51 掲載
坂東義博さん「私の心の中ではね。本当にみんな若くして国のため国のためって言って爆弾抱いて死んでいった」「だから、私が長く生き延びて誠に申し訳ないと思っています」

十勝の音更町に暮らす、坂東義博さん、100歳。
旧日本軍で、航空機の整備士として、太平洋戦争を経験しました。
九州の飛行場で見た特攻隊の出撃を、いまも鮮明に覚えています。
坂東さん「1小隊13機が飛び上がって、編隊13機が組んで、空港を3回ぐらい回ります。
で、それから翼を振って戦地に向かっていく。で、本当にその時は感涙します。
いや、この人たちを死んでしまうのかなと」
第二次世界大戦の末期。
旧日本軍が行った特攻作戦。
爆弾を搭載した戦闘機で敵の艦船に体当たりするなどし、隊員およそ6000人が命を落としました。

坂東さんは十勝の清水町出身。
パイロットに憧れを抱き、17歳の時に東京の陸軍少年飛行兵学校に入学しました。
1年間の厳しい訓練に耐えた時、大きな転機が訪れます。
坂東さん「目が悪かったんですね。視力が不足でパイロットになれなかった。パイロットにならなかったから生き延びた。パイロットになった者はほとんど死んだ」
整備兵の道に進んだ坂東さん。パイロットになった同期のほとんどが、特攻隊に編成されました。
坂東さん「同期生が1200人いたが、沖縄戦で100人以上死んでいます。爆弾抱いて、死んでいる。1番若いのは18歳です。宮古島に艦船が何百隻押し寄せてきてね、陸軍司令官が、これはもう特攻しかないということで、命令で行きます」
戦後80年。
若い特攻隊員たちが戦死した歴史を伝えている場所があります。
鹿児島県の知覧特攻平和会館です。
陸軍の沖縄戦で戦死した特攻隊員は1036人。
北海道出身の隊員も35人いました。

音更町出身の西島菊二六さん。
特攻隊「義烈空挺隊」の分隊長でした。
知覧特攻平和会館羽場恵理子学芸員「こちらの引き出しに、西島少尉の遺品を展示しています」
ここ知覧に保管されている、西島さんが兄に宛てて書いた手紙。
羽場さん「自分の事務的なこととか、家族のことを心配して書いている手紙。離れて生活をしているので、自分たちが見えない家族の様子を心配していたのではないか」
1945年5月24日。
西島さんら義烈空挺隊は、連合軍に占領されていた沖縄県の飛行場に輸送機で強行着陸。
決死の覚悟で手りゅう弾などを使って、航空機や飛行場の施設を破壊しました。
義烈空挺隊は全員戦死。
西島さんは27歳でした。
音更町西島さんのふるさとです。
音更町の農家に六男として生まれ、農作業の手伝いをよくしていました。
誠実な人柄で、地元の仲間からの信頼も厚かった西島さん。
これは西島さんが、最後の休暇で音更に戻った時の写真。
笑顔の女性は、母親のツヱさんです。
1941年に陸軍空挺部隊に入隊した息子の無事を祈り続けていましたが、帰らぬ人となりました。

佐藤裕樹記者「西島さんが生まれ育った場所の近くには、慰霊碑が今も残されています」
当時、特攻隊員の死は「軍神」として称えられ、終戦直前に両親らが建てた慰霊碑の除幕式には多くの人が集まりました。80年の歳月が経った慰霊碑。
当時を知る人はもうほとんどいません。
100歳の坂東義博さん。
飛行兵学校の同期およそ100人が特攻隊員として命を落としました。
坂東さん「結局ですね、軍国主義教育をされて、俺は国のために死ぬんだと、率先して死ぬんだということで爆弾抱えていったわけですよ」
特攻隊について、坂東さんは自らの記憶を、記録としてまとめてきました。
特攻隊の歴史を後世に残したいと考えています。
坂東さん「(特攻隊を)忘れないでほしいですね。そうでないと、やっぱり若くして死んでいったものにね。かわいそうだね、こんな世の中が便利でおいしいものがたくさんあって、お金出せば、何でも手に入るというような時代が来るとは誰も思わなかったと思います」
妻と二人暮らしの坂東さん。
終戦後はふるさとの十勝に戻り、林野庁の職員になりました。
趣味は60年続ける社交ダンス。
100歳になったいまも、週1回、続けています。
バスで1時間かけて、帯広まで出かけます。
ダンスの前に楽しみにしているのが、食事です。
この日は、帯広名物の豚丼です。
坂東さん「おいしいわ。ステーキはこんな厚いのでもころっと食べる/どんなに夏バテしていてもステーキ食べればばっちり」
並盛の豚丼を、15分ほどで完食しました。
坂東さん「こんくらい食べなかったら体力が持たない」
ダンス仲間と毎週会うことを楽しみにしている坂東さん。
阿部行雄会長「私も坂東さんより少し若いけど、戦争のことよく分からない。坂東さんが書いたのは貴重なもの。分からない。私は戦争の経験がないから。88です」
最年長の坂東さんも、準備を手伝います。
坂東さん「けっこう楽しいですね」

戦争で多くの仲間を失った坂東さん。
元気に生きることが、仲間への弔いになると考えています。
坂東さん「私がダンスをやっているとは思わないと思う、僕から見るとみんな若死にして、国のため国のためという一点で爆弾を死んでいったのはかわいそうだと思います」
特攻隊 若くして散った 命
彼らの尊い犠牲のあとに、いまの平和な日本が築かれました。
今年は戦後80年。
決して忘れてはいけない歴史です。